声に出して読む「朗読」は魅惑的な行為になる!?

英文学のアビゲイル・ウィリアムズ教授によると、黙読がしだいに普及していったとはいえ、19世紀に入るまで、黙読は「共同体的」「社会的」な読書、つまり「朗読」と共存していたといいます。周りの大人たちの間で共有される「公共アクティビティ」としての読書は、ラジオやテレビなどを通して家庭の中でもマスメディアの音声を聴ける時代になって以降、衰退し始めました。

ところが、朗読は、単に楽しいだけのものではなく、個人と個人の関係およびコミュニティの関係の両方を形成する、という非常に面白い力を持っています。

『テヘランでロリータを読む』(2003年)は、イスラーム革命後のイランで女性として、そして文学教師としての人生を描いたアーザル・ナフィーシーの回想録です。本書には、似通った文学への情熱のせいで恋に落ちたマナとニマ、という教え子たちが登場します。

文学への情熱がこの二人を結びつけたのであれば、それは朗読という行為が二人の絆を深めたのだと言えるでしょう。二人が声に出して本を読む読書会は、恐怖の監視社会から逃れる安全な場となったのです。

ジェイン・オースティンによる『マンスフィールド・パーク』(1814年)では、ヒロインのファニー・プライスと、彼女が好意を寄せるヘンリー・クロフォードとの関係において、非常に感情的なターニングポイントとして「朗読」が取り上げられています。ファニーは、ヘンリーが集まった聴衆に向かって音読するのを、彼のスキルと思いやりのために、座って聞かざるを得ないのです。

また、ベルンハルト・シュリンクによる『朗読者』(1997年)では、語り手のマイケルと年上の恋人ハンナの関係の中心的要素として、朗読が登場します。この作品は2008年に、デビッド・クロス/レイフ・ファインズ、ケイト・ウィンスレット主演で『愛を読むひと』のタイトルで映画化されました。

ハンナは、マイケルを引き止めておくためなのか、それとも純粋な好奇心のためなのか、二人が愛し合う前にマイケルに読み聞かせを要求します。マイケルと読者がハンナの2つの秘密を知るのは、本書のずっと後の方になってからです。(※以下、ネタバレ注意)実は、ハンナは強制収容所の元看守であり、文盲だったのです。

この作品『朗読者』では、朗読は単なる前戯などではなく、「読書、シャワー、愛を交わすこと、隣り合わせに横たわることの(個人的な)日課」に欠かせない本質的な要素となっています。読書は、肉体的にも感情的にも異なるこの2人を結びつけるのです。ハンナが戦争犯罪で投獄されても、マイケルは遠くから彼女に本を読み続け、彼が録音した朗読テープを頼りに、ハンナはやがて自力で文字を読めるようになるのでした…。

専門家のメーガン・コックス・ガードンによると、「朗読」は比喩的にも実質的にも「私たち人間を互いに近づける驚くべき力を持っている」と述べています。

一人で本を読むのとは対照的に、朗読はシェアする経験なのです。カップルがベッドでそれぞれの本を読み、寝返りを打って電気を消すというありきたりなイメージを思い浮かばせますよね。

朗読には時間がかかりますが、それこそがコンセプトの一部です。ゆっくりとした速度での読書は、より楽しいものです。私たちの文化に普及しているオーディオブックとは対照的に、朗読は相互的かつ直感的で、それは大人も子供も同じように体現できるものです。

読み手は観察者でもあり、ジェスチャー、表情、声のトーンを変えながら、それぞれの刺激に反応します。聞く人もまた、しっかりと注意を払い、目の前あるいは横にいる読み手に釘付けになるのです。